昭和50年01月18日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月の初めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
みやすう信心をするが良いぞと。止めてはならん。矢張りみやすうでも、信心を続けなければいけない。昨日はあの今学院から帰って来ております、栄四郎が福岡の平尾教会に修行にやらされておる。本部の方からそういう指示があって、一週間あちらへ参ります。そして昨日帰って参りました。まぁ案外楽しいそれこそお客さん扱いされて、まぁ大事にされて帰って来ておる訳ですけれども。
もうそれこそ大変生き生きとしたゴヒレイが立っておる。あの大きな町の事ですから、皆さんはまぁ言うならば小さい、小さいというが、まぁ合楽の様にはないでしょうけれども、とにかくご信者さん方が生き生きとして、あの信心の稽古をなさっておられると言う事で御座いましたが。もう僕は感心したと事は、あちらの若先生と言う方がもう、四十五六になられるらしいですけれども、もう親先生と言うのはもう私共よりも、十でも多いかったんでしょうか、もうだいぶんお弱りになっとるそうです。
ですから若先生が、まぁ中心で信心をなさっておられる訳です。それに朝の御祈念には起こして下さいと頼んどるげなけれども、起こしに行きなさるらしいですけれども、起きらんらしいんです。そしてから大坪先生、大坪先生とおらびなさるから起きたらもう、朝ご飯じゃき起こしに来なさるごたる風で、もうそれこそみやすう信心修行して来とる訳ですよ。それでもやっぱ、止めてはいない訳です。
毎朝「起こして下さい」「親先生の御祈念の時には起こして下さい」ち、言うちから頼んで休むそうですけども。起こし来なさるらしいですけれども、起きらんから仕様がないから、もう朝ご飯になった時に起こされるらしいんですよね。もう本当にあの僕は感心した事は、丁度やっぱ此処と同んなじに、九時でお広前を下がられるらしいんです。そすと僕はまるきり、ホテルへ行ったごたる良い部屋を頂いとってから、僕の部屋に、その若先生が入って見えるそうです。
そしてもうそれこそ根掘り葉掘り、合楽の信心を聞かれると言うのです。僕はもう感心したち。それでもう僕は返事のしようのなかけんで、そらもう「みんな神ながらです」「神ながらです」ばっかり返事しとったげな。(一同笑い)今朝からもうやっぱり兄ちゃんらと一緒に出て来てるんです。三時半に。けれどももう眠うして眠うして応えんごと。今、おらんとこ見ると、何処かぁははぁあちらに寝にいっとるじゃないでしょうか。それでもね矢張りあのみやすうそれを。
ほんなら眠っちゃならんとか、その時間に遅刻しちゃならんとかですね。それでも矢張り、みやすう信心はするが良いぞと仰ったが、信心を止めるが良いぞとは仰ってない訳です。だからねそれは難しいなら、難しい。自分なりに出来る範囲で、矢張り続けて行く内にです。段々おかげを頂いて来る。私は今度その感心しました事は、帰って参りましてから、あちらの信徒会長ご夫妻が、わざわざ此処まで送って来て下さってる事です。たった一週間位しか修行しとらんとにですね。
「もう僕は、合楽の方から電話かけると向かいに来る事なっとりますけん良か」ち言うたら、「いやぁそげなこつっじゃなか、もう私が送って行くから」と言うてですね。もう信者さん方からも、大変大事にされてね。それから丁度その中に、月次祭があったそうです。で月次祭には、合楽の大坪先生のお説教された。はっははは(一同笑い)もうそれこそ、漫画のごたるお説教じゃったじゃろち言うてから(一同大笑い)大笑いしたこつで御座いましたがね。
それで昨日そげなわけで、結局みやすう信心を続けておる訳ですけれども。ま昨日あちらの先生から、親先生にとお土産げの果物を頂いて帰ってきた。今度は御本部からの事ですから、御本部からちゃんと此のお初穂なんかもして下さってある訳です。ですからもう銘々は全然その、いらん訳です。経費から何から本部持ちなんです。それでまぁ私は、私なりに、私のお初穂だけは託けておりました。「もう帰りにだん、お礼のお初穂して来たか」ち。「それが僕はせんじゃった」が。
向こうからはっはは、水引の掛かったお初穂だしなさるげなもん。そしてから「あんたがたん神様にお供えして下さい」と言うてその、お初穂まで託って来た。こげな行き届いた。なるほど甘木の信心の、もうそれこそ手本の様な信心を、まぁ今度は見たり聞いたりして来てる訳なんです。そしておかげの泉をどうでも、此れから一つ送ってくれというて、そして昨日あちらの信徒総代さんも、帰りには此処のおかげの泉を全部、それから此処から出ております。
あの天地日月の心やら、和賀心時代を作るやらを全部あの、購入してまぁお帰りになったそうですが。もう本当にあの恐れ入ってしもうた訳で御座います。ですからその信心をそう言う、それなりのではあっても、続けると言う事です、信心は。ね。ですからもう例えば、小学生が中学生の真似は出来ません。中学生が又大学生の真似は出来ません様に、それなりであっても、矢張り続けると言う事が有難い。
昨日初めて、末永先生がお礼に出てまいりましてから。もう此処に修行させて頂く様になって八年。八年振りに昨日始めて四時の御祈念を、有難い尊いものにして頂く事が出来たという御礼を申しております。もうあんた眠り癖の付いとるばいち、私が言うくらいにもう眠うして堪えん。その先生がです八年ぶりに、四時の御祈念が有難い、尊い物として頂けたと言う、ね。
だからなら家の子供達も、まぁだ見捨てた物じゃないです。お広前に出てくりゃもう、寝て良かもんのごと思うてから、まぁ寝てしまいますけれどもね。けれどもそれでもその続けておると言う事がね、有難いと思います。信心はみやすい物じゃがと仰せられますが。矢張り見やすい物になるまでには、矢張り年期がいると言う事で御座います。ね。ほらもう朝の四時ち言うのは、やっぱ三時半頃には起きらんならんだろうが。
しかもそして四時の御祈念を仕える。それはもう眠いとが当たり前。それでもその四時の御祈念が有難い、尊いものとして、御祈念が出来たと言う事はです。もう既にみやすうなった訳です。ね。信心が見やすい。もう有難うして楽しゅうてと言うならもう、信心は見やすいのです。ね。だからそう言う様な信心が十年と続いたら、成程我が心が拝めれる様になるだろうと思います。ね。
私は最近表行より心行と言われる。その心行にもう此処六七ヶ月ですかね表行を、所謂形の行。火の行とか水の行とかと、ま様々に信心修行する人達がそういう修行を致します。ね。けれどもそういう一つの自力的な、我力的な修行はもう合楽には無いんだと。ね。此れはもう無限力、言うならば他力である。もう限りない無限力に繋がると言う事はです。とても自力の信心位で頂けるもんじゃない。
過去二十数年の間は他力の様であり、自力の様であり。自力の様であり、他力の様であると言った様な信心を続けて来た様に思う。だからお導きどんしなさんなと言う事になっとった。ね。唯私に力が出来るその範囲に神様が、私に百人の信者を持てれる力を与えて下さったら百人は必ず助かる。私が三百人の信者の願いを、お取り次ぎ出来る様な力が出来たら、三百人集まる。
それをはぁお導きしなさい、お導きしなさいというて、どんどん集まってくるとこちらは三百人の、言うなら取り次ぐ力しか無い者が、三百五十人になったら、五十人は何処かで落伍しなければならない。だから私の信心の成長次第に神様が、集めて下さるのだからというのが、私の主義であり流儀でありましたから。もう此れが合楽の御流儀になるかとまで思うておった。所がもう此処七八ヶ月なりますか、私が所謂合楽示現活動と言う事を、皆さんに聞いて頂く様になって、この方表行と言う事。
言わばそういう自力の修行を止めた。ね。言うならば見やすい信心になって来た。と言うてほんなら、何時まで経っても見やすいのではいけない。そこを祈り願わせて頂きながら。例えば八年ぶりにでもです。四時の御祈念が有難うなり尊うなって来たら、もうその有難いと言う物は忘れられない。なら此れからとても眠る事があるかも知れない、人間ですから。けれどもそれが有難い尊い物と言う体験が素晴らしいのです。
今までの八年間が惜しかった様ですけれども、それは其処迄来る為の過程なんです、矢張り。なら合楽で自力他力と言う様な事を言い。表行よりは心行と言う事もです。矢張り二十五年掛りだったと言う事なんです。ですから此の二十五年掛りにようやく解った、この心行と言う物がどの様な物かと言う事を、まぁ最近はもう本当に私は、もう寝ても覚めても此の事ばかりです。ね。
そして最近まぁ此処に極まると言うま答えが、ね。それこそ二十五年間言い続けてきた事ですけれども。実意丁寧神信心という事でございます。だから過去に言うて来た二十五年の実意丁寧神信心とは違ったもの。ね。心行とは此れなんです。もう実意丁寧神信心なんです。ね。はぁもう実意丁寧の取り違い、間違いもう本当にこの実意丁寧神信心と言う事が、心行に繋がっておる等とは、もう夢しかなかった。ね。
所が本気で心行という事になったらです。もうおのずと実意丁寧神信心しなければならない程しに、素晴らしい密接な関係があると言う事が解った事が、私は今素晴らしいと思ってます。まぁ例えて申しますと、若先生が四時の私の御祈念。そして四時半に終わります。そしてそれで若先生がその後を受けて、御結界奉仕を致します。昨日は四時半に此処を下がりましたけれども、若先生が出て来てませんもん。だからどうしたのかと聞いたら、ちょっと出とられますとこう言う。
勿論用事があって、私がある事を頼んでおりましたから、その用事に行ってくれたんです。だから久留米かなんかに行ったんでしょう。ですからねそう言う場合にです。あの此れは過去の私の場合であってもそうでしたが。そう言う時にはね、もう私がそう言う御用をしておる事は、神様もご承知だから、今度の四時の奉仕は遅なっても良い、まぁなんていうでしょうか、便乗主義というでしょうか。言うなら神様に対する言い訳が出来ると言う事です。所がね心行になって参りましたらね。
言い訳は出来ないのが心行です。言い訳しちゃならんです。だから言い訳せんで済む様に、ね。ばたばたっと何時間かかるだろうから、四時半にはちゃっと帰って来れる様に心掛ける事が心行なんです。ね。それを例えば心がける事がです、もう既に心行なんです。そして形に現れて来るのが、四時半に間に合う様に帰って来る。それが実意丁寧神信心なのです。私は最近、その事が解らせて頂いた。ね。
そうしてそうさせて頂く事が、それこそ末永先生じゃないけれども、その事が解った事が、又それを行の上に現す事が出来る事が、有難うなって来たです。所謂実意丁寧神信心が、所謂きちっと出来る事がもう楽しゅうなって来た。今まではです、ね。例えて申しますと。昨日一昨日は、矢次さん所の霊祭でした。向こうの方が迎えに見えるのが遅かったから、だいぶん時間が、予定よりも遅くなりました。それでもやっぱり心掛けさせて頂いておりますから、八時の御祈念には昔だったらですね。
例えばお神酒やらご直会を沢山頂き、御馳走で腹一杯でもうその、ゆっくりするとこでしょう、ね。けれども八時の御祈念に間に合う様にと、その心掛けてお酒を頂来夜。ですから帰って来た時は、丁度八時の御祈念の十分前には、帰って来る事が出来た。そして此処へ座らせて頂く事が有難いです。それが実意丁寧神信心だと言う事がです、ね。成程それには、心行が伴わなければ、それが出来んでしょうが。ね。
飲む程に酔う程に、もう今日はこげな一役務めとるとじゃから。ね。家の方は留守にしても、神様には御無礼にならんと言った様な。神様が今日は外での御用をしておる事が解っておるから。もうご承知だからと言う様な考え方。それは成程それで神様は、許しても下さるけれどもです。言うなら我ながら自分の心を拝めれる様な信心には、到底なれないです、そう言う信心では。ね。そう言う例えば、末永先生の申します様に、ね。八年振りに初めてです、ね。
皆さんもご承知の様にまぁ、熱心な信心修行させて頂いておるけれども、四時の御祈念ちはもう、眠ってよかもんのごと思うておった。眠る時間がないから眠るとはもう、神様が許されとるとさえ思うておった。大して御無礼とも思わなかった。ね。親先生があんたもう、眠り癖の付きとると言われたら、本当眠り癖が付いとると思うておったのが、昨日から有難い四時の御祈念が有難うなった、尊い物と解って来たとこう言うのです。それは御祈念は何回も致しますけれども。
その中でも四時の御祈念が、愈々有難い尊い物に成って来たと言う所に。そう言う信心が、十年と続いたらです。我が心が本当に奉れれる様に成るだろう。そう言う難しい信心は、とても真似が出来ん。真似する事は要らん。栄四郎の話を致します様にね。それなりにです、ね。それこそ、漫画の様な信心からです、ね。もうそれこそ、同じお書物を読むでもね。もう本当に眠気の来る様な、ね。小さい活字で書いた、難しい事を書いた。一ページ読んだら、もう眠気の来る様な、言わば本でもです。
そういう難しい本のほうが、ね。血にも肉にもなる事が分かって来る様になりますとです。それが有難いと言う事になって、それこそ学徳が付いて来る様になって来ると、難しい本ほど、言わば楽しい物になって来る様に、ね。始めはだから必ずその、誰の真似と言う事は無い。けれども止めてはならん。矢張り続けなきゃならん、ね。漫画の様な信心でも良いから続けて行く内にです。所々に挿絵のある様な、言うならばものも読める様になり。もう挿絵なんかは全然無い言うなら難しい、ね。
言うなら漢字ばかりのご本が読めれて、しかもそれが楽しゅうなり、有難うなって来ると言う時に初めて、わが心が拝めれる様にと言う事になって来るのだと思うのです。ね。だから信心は、ね。もうそれこそ生まずたゆまず、矢張りそれなりに続けさせて頂くと言う事であります。ね。その日その日のおかげを受けて行けば楽じゃと、こう仰るように。例えばなら栄四郎から、末永先生の所迄のまぁ言うならですね。その過程の中にも信心も矢張り面白う、可笑しゅうまたは嬉しゅう楽しゅう。
段々ならせて頂くおかげを受けて行かねばならん。折角私が実意丁寧神信心と言う事が、心行に繋がると言う事を感じさせて頂いておるのでございますから、皆さんも一つその実意丁寧神信心をです。心行と繋がるだから形だけ実意丁寧、金光様のご信心振りを現そうとしておるから、所謂実意丁寧の化け物のような事になって、信心になら無いのです。何処迄も実意丁寧神信心が伴わなきゃいけないと言う事。ね。実意丁寧神信心が出来る所にです。ね。それこそ楽しくもなって来る有難くもなってくる。
しかもそれが十年とそういう信心が続いたら、我ながら我が心が奉れれる、拝めれる様な信心も頂けれる。はら、大変な難しい事じゃろうと言うけれども、一段一段信心は。それこ、信心も手習いも同じ事。一段一段上がって行くと仰る。一段一段あがって行くと言う事だけは、止めてはならないと言う事です。何時も前向きの姿勢でおらなければならんと言う事だけは、絶対なものなんです。どうぞ、そう言う信心を一つ身に着けて頂きたいと思うですね。
どうぞ。